ヨーロッパ北部の祭「ユール」

一方、ヨーロッパ北部ではケルト人やゲルマン人も冬至の日に祭を行っていました。 冬至頃のスカンジナビア地方などでは、一日のほとんどが太陽の昇らない夜になります。 この闇が支配を強める季節は、死の神でもある北欧神話の主神オーディンや幽霊、悪霊がうろつく季節だと考えられていました。 そして人々は、太陽が再び力を取り戻す日が二度と来ないのではないかと恐れました。
冬至の前日、村から一人、太陽が昇ってくるかを見張る係りが選ばれ、 係りにあたった人は、山に登ります。そして、山の頂から太陽の最初の光を確認すると、 大急ぎで村に駆け戻り、無事に太陽が昇ったことを伝えました。 ここから盛大な祭のスタートです。この祭はユールと呼ばれますが、 現在でも北欧ではクリスマスのことを「ユール」と呼びます。

ユールでは、人々は貯蔵していた食べ物を料理し、お酒をあけ、「ユールログ」と呼ばれる 大きな薪(木の幹)を燃やす火を囲んで、「太陽の復活」を祝い、悪霊をなだめるための宴会が始まります。 ある地域では、木の枝にリンゴをぶら下げて、春と夏が戻ってくることを表したそうです。 「ユールログ」は、最低でも12時間、一般的には12日間燃やし続け、この期間がユールの祭です。 ユールログが燃えている間は、悪い魔法から家族を守ってくれると信じられていました。 この燃えさしには幸運や豊穣をもたらす魔力があると信じられ、 灰を畑や泉に撒いたり、灰を混ぜて害獣避けや嵐避けのお守りを作ったりしました。 このユールログは後にヨーロッパ各地に広がり、現代もこの風習を続けている所もあります。 日本でも「ブッシュ・ド・ノエル」などのケーキに形を変えて伝わっていますね。

ミトラ教「不滅の太陽の誕生日」とクリスマス

時代はキリスト教が勢力を増してきていた頃のローマに移ります。 この頃、ローマでキリスト教としのぎを削っていた勢力がミトラ教でした。 ミトラ教は、ゾロアスター教(ペルシアで創始)から派生した宗教で、太陽神ミトラを崇拝しています。 このミトラ神が力を取り戻し、再び地上に生まれてくる日が冬至で、この頃の暦では12月25日が冬至だったのです。 この祭は「Dies Natalis Solis Invincti」(不滅の太陽の誕生日)と呼ばれていました。

古代の宗教では、冬至に太陽が死に、生まれ代わることで力を取り戻すと考えるものが多かったのですね。
太陽は死と復活を繰り返し、全ての生物の生命活動に関わる偉大な存在だったのです。

ミトラ教最大のライバルだったキリスト教は、旧約聖書の「マラキ書」に「義の太陽」という言葉が出てくることを挙げ、 真の「義の太陽」であるイエスの誕生を12月25日に祝うべきだと主張しました。 ご存知のようにイエスは死後復活し、人々を原罪から救ったわけですから、太陽と重ねてみることに無理はありません。 ミトラ教が徹夜で不滅の太陽の誕生日を祝う一方で、キリスト教も徹夜でミサをあげるようになったのです。

325年に開かれた“教会会議”で、キリスト教会は正式に12月25日をイエスの誕生日に決定しました。 これには当時のローマ皇帝コンスタンティヌス1世の、キリスト教とミトラ教を平和的に融合させてしまおうという 思惑が絡んでいるようですが、巨大なローマ帝国の中には、ケルト人やゲルマン人など冬至を祝う民族が多数いたのです。 こういった様々な民族、宗教を統合させてしまおうとしたわけですね。

現存する最古の記録では336年に12月25日をクリスマスとして祝っています。 ただし、エルサレムなど一部の正教会は、現在でも12月25日をクリスマスとして認めていない派もありますし、 ロシアなど、現在のグレゴリウス暦の12月25日ではなく、旧暦であるユリウス暦の12月25日(現在の1月6日)に クリスマスを祝う地域もあります。

クリスマスは異教の祭・・・という表現も耳にしますが、確かに様々な宗教が統合されたものであることは否めません。 しかし、聖書にイエスの誕生日が書かれていない限り、イエスの誕生日を正確に知ることは出来ません。 ですから、キリスト教の人々は、イエスの誕生を記念するにふさわしい日を 選び出したといえるのではないでしょうか。

長い年月をかけて、キリスト教にそぐわない異教の祭の面は剥ぎ取られ、 また様々な地域の伝承が形を変えてクリスマスに入っていきました。 こういった祭の中で生まれたのが、サンタクロースとその仲間たちです。 次回から、世界のサンタクロースをご紹介していきます。






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